昭和43年5月17日 朝の御理解 (末永信太郎) №43-070
諺に、知らぬは一生の恥ということ、ね。習うは一時の恥。知らぬことは、一生の恥だと。それを習うということは、そん時だけ、一時の恥だと、こう言うわけですね。信心をさせて頂いて、様々、今まで知らなかったことを教えて頂くわけですね。これは、恥ずかしい思いをする訳ではない、教えて下さるのですから、習うのじゃない。ね。こちらが、教えて下さるのですから。
けれども、それを知るということは、一生の幸・不幸の分かれ道。それを知るということによって、真実幸せになれるという道。そういう大変な道をいわば教えて頂くのです。ね。御教えの中に、この「知らんこと」ということが、いくつも出てますですね。
天の恩を知りて、地の恩を知らぬこと。ね。天の恩も知らん人が多いですね。けれども、天の恩は何とはなしに仏教的な考え方から言うても、天恩というものがとれてある。大地のことについては、もう、汚れた物といったような風に教えられておる、(忌み土?)と、こう言う。ね。
大地というものが汚れもの、天は清らかなもの。ところが教祖は、そうではない。天の恩と同じに、地の恩もまた大事だと説かれますですね。ですから、例えて言うなら、その、天恩地恩を教えて頂いたら、ね、教えて頂いたことが成就されなければ、使われなければ、ところが、宝の持ち腐れ。ね。
人間は神の氏子じゃによって、とこう仰る。そんなことも知らなかったんですもんね。信心させて頂くようになって、はあ、人間は神様の氏子じゃということが分かるんです。ね。一視同仁、みんな同じ神の子としての値打ちあるものをそれぞれが持っておるということを説いておられるのです。
だから、それを見下したり、汚がったりしてはならんと、こう仰る。ね。ところが、私どもがはたして、見下したり、汚がったりしていないかと言うと、そうじゃない。きれいな風をしておると、それが良かつのように思うて大事にする。じゃなくても、その何とはなしに、まあ、人が嫌うような人もある。ね。性格的に人に嫌われるという人もある。好まれる、好かれる人もある。
けれども、神の氏子としての、神様の氏子だからと、こう、教えて頂くのですから、はあ、汚がっちゃいかん、と。ね。爪弾きをしてはいけんと思いながら、やはり、好かんもんな好かんという感じがするですよね。けれども、そこんところを、例えば信心をしておると、その、分からせて下さる。例えば、最近の御理解を頂いておりますと、そのことにつきましてもですね、自分で、はあ、本当に浅ましい、何と汚い自分であろうかと、例えば思う。その汚いものが、または見苦しいものが、人にも、まあ、感じられる。
だから、あの人は汚い人じゃという風に、こう、見るわけなんだけれども、実を言うとそれはね、汚いものじゃない、人間は神の氏子としての、もう、実に清らかな、神様と同じものを私どもは持っておるんだけれども。ね、それに、汚いとか浅ましいとかというめぐりが付いておるだけなんだということ。ね。
だから、あれは、福沢諭吉でしたかね。「人の上に人をつくらすな」なんかという言葉がございますね。神より、人の上に人をつくらない、一視同仁だと、こう。ですから、あの人は例えばずるい人だとか、汚い人だとかという風に思うてもです、あれは、あの人が汚いのじゃない、あの人が浅ましいのじゃない。あの人そのものが神様なんだ。けれども、あの人に付いておるめぐりが汚いんだと分かる。
と、例えば、そういうことを、知らなかったことを教えて頂くわけでしょう皆さん。だから、それを知っただけじゃいかんのですよ。本当に、その人を大事にしなければいけんのです。今まで知らなかったことを、ね、どげん言いなさったっちゃ、やっぱ、あの人は嫌だ、好かん、人間が汚かと思っておる間は、ね、一視同仁、みな神の子と教えられても、ただそれだけでは、どうも、やっぱり嫌いなもんな嫌いと思うておとたけれど。その人、ね、その人に付いておるところのめぐりそのものが汚いのであり、浅ましいのであり、その人自身はやっぱり、神の子としてということの見方が出けるようになるから、ね、または、次の言葉にありますでしょう、ね、「その人の罪を憎んで、人を憎まず」という(ことです?)。ね。
例えば、泥棒をするような人であってもです、やはり、その人そのものは憎んではならない、それは、神の子だからである。ね。その罪だけを憎む、その罪は憎いんであるというのは、泥棒をしなければならないようなめぐりを持っておる、そのめぐりを憎むのであって、その人を憎んじゃならんと、これはやっぱり、その、教祖ではなくてもそういう風に説いております、あの、言うておりますですね、世間でも。
ところが私どもは、その罪と一緒に、その人までも憎む。まあ、これは例えば、いいですか、今日は私は、お互いが知らんこと、ね、それを、まあ、教えて(たんです?)。しかも、その、知らぬ事というのは、そういうことを知らんでおったんでは幸にはなれない。これを知ることによって、人間が幸になれるんだというような、私は大変なこと、大変な道をです、真実幸せになれる道を教えて下さるのであるから、教えられたことは覚えておって、それを使わなければ何もならん。
皆さん、ここんところは、いっちょ分からにゃいかんですよ。どんなに朝晩に御教えを頂き、御理解を頂きましても、はあ、そんなもんかな、と。ね。天の恩を説いて頂き、地の恩を聞かせてもらってもです、本当にその地の恩というものを私どもが知らにゃいかん。だから、天の恩地の恩と言われただけじゃ、一向、こう、有り難いというものになって来ないのだけれども。ね。
天の徳、地の徳という風に説かれる。その天の徳を、地の徳を自分の身にも受けて行こうというような精進がなされる。そこに、地の恩が分かり、地の徳が分かり、いわゆる、大地を拝ませて頂く姿勢というかね、拝まなければおられないものが生まれて来る。地の恩を教えて頂いても、地の恩に対するところの、ね、報恩というかね、その恩に報いる心がなかったんでは、何もならん。今日は、例えば地の恩とか、人が神の子であるとかといったようなこと、そういうことをお互い、今まで知らなかったんでしょうが。
知っておっても、ただ、有り難いというものが伴うて来ない知り方だったんでしょうが、天の恩、地の恩と言うても。その証拠には、湧いて来る有り難さというものが、そのことに対して感じない。それはあ、神様の氏子であると、一視同仁だと、人の上に人を神はつくるようなことを知ってもです、やはり、あの人は好きであり、あの人は嫌いであるという心が起きてくるから、つい見下したり、汚かったりするんです。
ね、けれども、その汚いと思うておることも、見苦しい、嫌だなと思うことでもです、ね、それは、もうその人じゃないんだ、と。その人に付いておるめぐりが汚いのだ。その人自身は、神の氏子としての立派なものを備えておるのだということが分かって来る時に、その人の罪を憎まず、ああ、人を憎まず罪を憎むということになるのです。ね。ですから、その人を軽う見たり、汚がったりせんで済むおかげが受けられるのです。例えば、その二つのことでもですよ、ね、ははあ、自分が人を軽う見たりするから、おかげはなし。 例えば、おかげはなしと仰っておられるのですからね、人を軽う見たらおかげはなしと仰る。はあ、これだけでも、自分がおかげが受けられなかったなという道を教えて頂くのですよ。例えば、いくら習うてもです、それを実行しなかったら、知らない時も同じこと。ね。せっかく恥を偲んで教えてもらうということはないですよね、信心は。いわゆる、一般では例えばね、知らんならば、それは若い者からでも、ね、自分の年下の者からでも、教えて下さいと言うて、辞を低うして習うということは恥ずかしいことであるけれども、しかし、それを覚えることはです、もう、一生の徳になることだ、と。
知らないのは、もう、一生の損だ、一生の恥だという風に言うようにです、私どもは知らないことを、こうして教えて頂く。なら、例えば教えて頂いても、それを行じなかったら、使わなかったら、知っておらん時でも同じこと。どんなに幸せな道を教えて頂いてもですよ皆さん、おかげを頂く道を教えて頂いてもですよ、お徳を頂く道を教えて頂いても、知っておるだけでは、お徳にもおかげにもならないということ。ね。
それを私は、まあ、これは合楽でと言うとちょっと何ですけども、合楽ではですね、教えて頂くでも、それを実感しなければおられないように教えて頂くのです。ね。人を軽う見たらおかげはなし、と。が、人を丁重に扱うことによって、おかげを頂けるのですけれども、扱えない。けれども、なぜ扱わなければならんか、いや、扱わんで済もうが、こういう訳だからと頂くから、人を軽う見らんで済むようになって来る。
ね、神の氏子として、それを見たり感じたりすることが出けるのである。なるほど、あの人は嫌い嫌いと思いよったけれど、あの人は汚い人と思いよったけれど、あれは、あの人のめぐりが汚いのであり、見苦しいのであるから、ということが分かって来る。ね。
だから、罪は憎んでも、その人は憎まんで済むのだ。合楽の場合は、そういう風な風に教えて頂くわけですよ。ね、だから、そういう風に、んなら、まあ、噛んで含めるように教えて、よし頂いても、なら、それを行じなかったら、それは何もおかげには繋がらないということです。
皆さん知ったことをね、本気で行じなければいけんのですよ。ね。大地の例えば御恩徳でもそうです。教祖だって、ね、大地の御恩徳を説かれてあるから、その大地の御恩徳を分からせてもらう。ね。その、いわば(よしな?)として、ね、大地をみだりに怪我すなよというようなことを教えて頂く。今までは知らんもんですから、もう、大地を怪我す、怪我し放題であった。それを、お詫びをする心もなかった。
それを頂くのである、分かるのである。そこで、大地を、金光様の御信心をさせて頂く者は大地を汚さない。怪我すどころか、人が例えば、ね、大小便で怪我したり、唾を吐いたりしておると、はあ、神様にそれを、その人のために詫びてやる心すら起こってくる。また、それを清める人すらがある。汚いものがある、それを清めて行く人すらがある。ね。そこにです、そういう例えば、行をさせてもらいよる内にです、大地の徳というものが、これに応えて来るのです。ね。
大地というものは、ね、それこそ黙って、どのような汚いものであろうが、一切を黙って受けて行く母体のようなもの。ね。どんなに汚いものでも、黙って受けて、それを浄化して行く。その人間もです、やはり、大天地に対する小天地。天地の親神様に対する氏子であるのですから、その同じような働きを自分の心の中に、そういう働きが起きて来ることを教えて下さる。どんな難儀な問題があっても、どんなに人から恥ずかしい目を受けても、どんなに馬鹿にされても、それを黙って受けて行く道を教えて頂くのだ。
だから、ね、どんなに忌み汚れなものであってもですね、それが清らかなものに、清らかなものに、いよいよ大地が清らかになるように、自分の心も豊かになる。ね。自分の心が豊かになって行く、ね、自分の心の大地がきれいになって行く、豊かになって行く。ね。そういう豊かなものと豊かなものが通わないはずがない。ね。同じ同質なものである、自分の心と大地と。
そこにです、大地のいわゆる恩徳というものが分かると同時に、自分の心の上にも大地の徳が頂けるようになる。という風に、まあ、いわば説いて頂くわけですよね。ですから、いかに天の恩、地の恩ということを知っただけでです、ね、だけではいけないの。自分の心にも、その地の徳というものが育って行くというかね、行く、豊かになって行くという、それを喜ばせてもらう、( )しませてもらうという、そういう精進の道を信心によって教えて頂くのである。
いかに教えて頂いても、その精進をしなかったら、だから、何もならんということ。ね。皆さん、ここでは、はあ、本当に初めて知った。はあ、そうばいな、というようなことを頂くでしょうが。ね、そういうような、はあ、今まで知らなかった。ね。だから、知らなかった間は、もう、それでいいとしても、知ったが最後です、それを、やはり、ね、知ったが最後、それを自分のものにして行くことにいよいよ勤めさせてもろうて。ね。それを行の上に現して行くところの、私は修行が、いわゆる修行なされて、ね、それが凝視されて行く、それが使われて行く。ね。どんな素晴らしいことを教えて頂いても、それを使わなかったら、何もならんということ。今日は特にですね、そういう一つ、地の恩ということは、地の徳ということ。
ね、地の徳を知らなければ、地の恩は分からない。ね。地の恩を、ね、いよいよ知るために、地の徳を自分が受けなければいけません。ね。地の徳を受けるための修行というのは、なら、どのような、例えば難儀な問題というかね、場合によっては恥ずかしい思いをすることもあろう、嫌な思いをすることもあろうけれども、それをいちいち跳ね返しとったんじゃですね、いつまでも地の徳は受けられませんです。ね。
いちいち、いわゆる、プリプリ腹かいてばっかりおるごたっとは、こっちは、もう跳ね返しておるとですけん。それでは、いつまでも地の徳は、どんなに大地の大恩を説かれても、ね、地の徳を身に受けて行かなければ、大事の恩は分からん。ね。ですから、それを黙って、いわゆる、大地がどういう汚いものを持って来られても、それを黙って受けるだけではなくて、それを浄化して行く。
どんなに嫌なことを言われても、それを黙って受けて行って、相手のことをかえって祈るような気持ちにならせて頂く、そういう修行をする。そこに、いわば地の徳というものが自分の心の中に備わって来る。地の徳が頂けるから、地の恩が分かる。ね。今日は一つ、どうでも、知っておられるけれどもです、ここにずいぶんね、繰り返し聞いておられるから知っておられるけれども、それを、いよいよ知っただけではない、本当にそれは行じさせて頂けるために、ね、自分の心のいわば、に地の徳をいよいよ受けさせて頂く精進をなさらなきゃいけません。人を軽う見たら、おかげはなし。
もう、おかげはなしと断言しておられるのであるから、ね、今までは知らないとは言いながら、ね、人を特別に大事に思うたり、ね、汚がったり、軽う見たりして来た。そういうお粗末ご無礼をお詫びすることもさることながら、ね、これからは、人を軽う見るようなことは致しません、と。それは聞いては来たけれども、やっぱり好かんもんな好かん、嫌なもんは嫌じゃったけれど、御理解を頂けば頂くほど、自分自身が神様の氏子であるように、その人もやはり神の氏子なのだ。
自分の中にも、このように浅ましいものがあると思うておったけれども、これは、自分のものではなくて、それは、めぐりが浅ましいのである。あの人だって同じこと、嫌な人だと思いよるけども、その嫌なところは、その人のめぐりなんだから。ね。そのめぐりが例えば汚かっても、鋳やがっても、その人その人自身は、嫌がっちゃならん、嫌っちゃならんということが分かる。
だから、その人を神の氏子としての取り扱いが出けるようになるから、私はおかげはなしと仰っておったのが、おかげがあるということになって来る。ね、今日はその二言、まあ、二言ということじゃありませんよね、教えて頂く、知らないことを教えて頂くことは。
だから、いかに知らなかったこと、いわゆる最近ね、あの、教えへの帰依ということを言われますですね。ということは、今まで知らなかったその教えの深さ広さというものをです、どんなに神の知恵を持ってお説き下さっても、今まで知らなかった神様の知恵でもあろうと思われるような知恵が自分の身に付いて来てはです、それを知っただけでは何もならん。ね。
せっかく教えて頂いて、ね、せっかく、言うならば恥を偲んで教えて頂いたことでも、それを使わなかったら何もならん。なら、これでは、恥を偲ぶというわけじゃない。ね。今まで本当に、もう、本当に知らなかった。ね。例えば、甘木の初代の親先生なんか、初めてお参りをされた時に、ね、大地の御恩徳ということについて話を聞かれた。ね。そん時に、もう、その心の喜びというかね、もう、それこそ足元から鳥が飛び立つような思いであったと言うておられます、その時の一時を。
はあ、知らなかった。天の恩は聞いては来とったけれども、本当に地の恩ということを知らなかった。長年の間、大地に対するところの、に報いることも出けなかった、初めて聞いた。その初めて聞いた、その地の恩を聞かれた時に、足元から鳥が飛び立つような思いであったと、そういう思いでそれを分かられたから、甘木の安太郎先生の一生の中にですね、大地の御恩徳というものを心から自分が頂かれ、人にも説かれたんです。ね。いわゆる、自分のですね、自分の知らなかったことを教えて頂いて、それを行に現して行かれた。自分が徳を受けられて、それを人にもたくさん教え伝えられたわけなんです。
ね、だから、何十遍頂いても、聞かせて頂いても、教えて頂いてもです、ね、それを行じなかったら何もならん。ね。ですから、その、それこそ足元から鳥が飛び立つような思いで、はあ、知らなかった。こういう素晴らしいことを、ここに、本当の人間の幸せの道がここにあった、と。そういう幸せの道とは、全然、反対の道ばかりを行っておったんだから、幸せになるはずはなかったと分からせてもろうたらです、本当に幸せの道というものを教えて頂くのであるから、その幸せの道を歩かなければ幸せには到達しませんよ。
詳しゅうなっただけじゃいけません。おかげが頂きたいなら、本当におかげの頂きたい道をですね、教えて頂いて、それを行じなかったらおかげにならんのですよ。ね。これからとても、知らんことが沢山教えられるのですから、ね、それを一つ、本気でそれを、分かったらそれを行の上に現して行くところの、その実行力というものを身につけて行かにゃいけません。ね。
今日はとりわけ、地の恩、と。ね。人間が全て神の氏子であるということ。人を軽う見たらおかげはなしということを教えて頂いたのであるから、人を軽う見らん。なぜ、軽う見ちゃならんのか。はあ、そういう訳であるならば、ね、人を軽う見んで済むのだ、その気になれば。ね。あの人が悪いのじゃない、あの人のめぐりが悪いのだ、と。めぐりは嫌っても、その人は嫌わんで済むおかげが受けられる。
そこで、軽う見らんで済むから、おかげはなしと言われておったそれが、おかげがあるということに変わって来るのです。知らんこと、知らなかったこと。それを教えてもらう。ただ、教えてもらっただけでは、しかし、何もならん。それを、いよいよ凝視して、初めて知った値打ちがある。いわゆる、信心させて頂く値打ちがある。お互いが信心頂いておる値打ちというものは、そこに置かにゃいかん。
ただ、お願いをしてから、ね、金光大神のお徳によっておかげを頂くと、それだけで満足しておるような顔をしておるのである。それで本当のおかげが頂けるはずがない。ね。ここをこう分からなければ、そう行じなければおかげはなしと仰るならば、そこんところをなし得るおかげ、なし得る力、なし得るところに精進させてもらうおかげを頂かせてもろうて、初めて、いわゆる、幸せの道に出れるわけなのですから。ね。
知らぬ、今まで知らなかったことをですね、それこそ、足元から飛びが飛び立つような思い、(こうどり?)する思いで、その喜びが私どもに伝わって来るようなね、受け物というかね、ものを作って行かなきゃならん。そこから、私はおかげが受けられると思うのです。どうぞ。